1日1食 ゆるベジへの道      幸せなベジタリアンになる   

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2016年2月14日(日)の食事

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今日の夕食は以下の通り。

マックフライドポテトXL

おにぎらず
・ごはん
・胡麻ドレッシング
・ほうれん草
・レタス、キャベツ、ニンジン
・納豆
・うめぼし
・ザーサイ
・のり
・わさび
・しょうゆ

食後のおやつ
・スイカ
・抹茶ケーキ

昨日買って読んだ「わたしのウチには、なんにもない。」(ゆるりまい著)に影響を受けて、今日もまたモノを売ってきた。写真で見るまいさんのウチは、本当に何もなくてモデルルームのようで憧れる。

でもそれまでの道はかなりつらいと思う。今日の私も不幸だった。あとからあとから出てくる不用品。毎回売りに行くたびに「もうこれ以上絶対ないし、今日で最後!」と思うのに、また次回は一度で運べる限度の大袋一杯の不用品を抱えて売りに行くことになる。

そしてその度に、「たいしてお金があるわけでもないのに、こんなに要らない物を買い込んで、私はいったい何をしているんだろう?」と思わずにはいられない。

さらに、「今よりお金持ちになっても、貧乏になっても、結局そのレベルで同じことを繰り返しているだけじゃないか?」とモノに振り回される人生に悲観的になる。

「捨て」には何度か越えなければならない壁があるようだけど、私はまだ「捨て」にも至っていない。捨てられない性格なので、不用品はとにかく売りに行っている。

そしてその捨てられない性格のおかげで、今日も結局自分のやりたいことは何もできずに、わざわざ売りに行って時間を無駄にしている。

ミニマリストの本や、「持たない幸福論」や「20代で隠居」を読んでいると、いかに自分がこれまでモノに振り回された人生を過ごしてきたかに気付いて愕然とする。しかも全然そんなつもりはなかったのに。全く気付いていないところが、ミヒャエル・エンデの「モモ」の中で、時間泥棒にいつの間にか時間を奪われていた人々を彷彿させる。そしてこの時間泥棒の真の黒幕はモノ様だったんじゃないかと思う。

「わたしのウチには、なんにもない。」は、2013年に初版が発売されたようだけど、私は2014年12月に引っ越しした時でさえ、まだモノのために大きな部屋が必要だと考えていた。

今考えるとバカバカしいけど、当時はそれ以外の発想はなく、「便利さ< 部屋の広さ」で物件を探していた。今の部屋はとても気に入っているけれど、モノ様のことを一番に考えていた自分は気でも触れていたのだろうかと思う。

モノ様の支配から抜け出すために、頑張ってミニマリストを目指そうと思う。