1日1食 ゆるベジへの道      幸せなベジタリアンになる   

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誰も何も考えていない

昔、大学入試の試験科目に「小論文」というのがあった。大抵は、何か一つ時事問題が提示されて、「○○について自分の考えを述べなさい」という出題形式だった。

当時17、8歳くらいだった私は「考えを述べる」という意味がよく分からなかった。「そもそも考えるってどういうこと?そういうことはしたことがない」と思っていた。

その後、大学には行きたかったので、小論文については他の人が「考えた」らしいことを繋ぎ合わせて書くという技術を身に着けた。自分で「考えた」わけではないことは百も承知だったけれども、当時は自分以外の人は(特に大人は)、そういったことを自分の頭で「考え出す」ものなんだと感心していた。

その後、わたしも考えるという言葉に慣れた(?)のか、「考えて」と言われると、そのことに思いを巡らせて自分の意見を述べるようになった。

少し脱線するけれど、「意見」を辞書で引くと「ある問題に対する主張・考え。心に思うところ。」となっていた。けれども、私の言う「意見」は主張であって考えとは限らない。主張と考えが違うなんてよくあることのような気がするけれど。

話を元に戻すと、「考える」という行為を普段はあまり気にしていなくても、これまでにも時々よく分からなくなることがあった。「考えるって何なのか。この人はここに書いていること全てを自分の頭の中で作りだしたということなんだろうか?そうだとするとものすごい!」

けれども最近ノンデュアリティの世界に触れて、やっぱり誰も何も考えていなくて、あの当時の私は正しかったんだと気付いた。

人々が「考えた」と思っていることはすべて単に「思い浮かんだこと」で、私がかつて想像したように、自分で頭の中で作りだしているものではない。そもそもそんなことが可能なら思考をコントロールできるわけで、嫌なことを「考え」たりする必要がない。

ノンデュアリティなど知らなくても、それこそ「考え」てみれば分かることで、「考えている」と思い込んでいることは実は「思いついた」こととか「思い浮かんだ」ことなのだ。

あることについて、それまで学んだ知識や経験、それまでに起こったことを思い出すうちに、パッと浮かび上がるもの、それが「考える」の正体だと思う。

私はこれまで「考える」というのはもっと主体的な行動だと思っていた。言葉で表現すれば、「脳細胞の活動を通して新しく製造されるもの」というような。けれどもそれは全く違っていて、逆に極めて受動的な行為で、パッと思いついたものを、自分で後付けすることにより、あたかも自分が「考えた」ように錯覚しているだけだ。

でも本気で自分で「考えた」と思っている人が多いので、私はそのように書かれたものを読んで、今までひたすら混乱していた。自分の思考回路はどこかで切れているのかと思っていた。

でもようやく、「誰も何も考えたことはなく、すべて勝手に起こって来るだけ」ということに気付いて、それならいろんなことを「考える」人がいても全く不思議ではないと合点した。

これまで、まさか「勝手に思い浮かんだ事」=「考えた事」と表現されているとは気付かずに、時々何かヘンな感じがしていたのだけれど、ようやくすっきりした。もし誰かが私に「勝手に思い浮かんだ事」を整理して書くと「考えた事」になると教えてくれれば、こんなにモヤモヤすることもなかったし、今までもっと上手に「考える」ことができたのに。

でも私と同様、「考える」という言葉に惑わされている人は多いんじゃないだろうか。

実際は、考える人は誰もいないけど、「考える」と勘違いしているだけ。もし本当に自分で「考える」人がいるなら、「考え」をコントロールすることができるはずだけれど、そんな話は聞いたことがない。